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第十二章 戦時下終戦までの有田
(一)日華事変頃まで
 満州事変後の昭和八年には有田焼出品協会は大連の県物産斡旋所の中に見本を展示するなどして、有田焼の満州市場進出に積極的な宣伝に努めた。

 事変まで有田や伊万里の仲買商で満州を市場としていたのは二、三に過ぎなかった。その内岩谷川内の山口兵太郎などは治安が悪かった事変前に匪賊に襲われて着のみ着のまま大連まで逃れて来るなどの事件もあった。だが、満州国成立後治安も良くなり、地理的に近いので、仲買はもとより当時小売商人と称した直売業者も続々と満州市場へ進出した。

 これを町史商業編2で引用している昭和九年一月十九日の佐賀新聞から見ることにする。
 「近来満州地方へ邦人の移住が漸次増加したに従い、同地方に於ける旅館、料理屋、飲食店の発展は素晴らしいものがあり、一般的に景気立ったため、陶磁器の需要が頓に激増し、県産陶磁器の輸出荷動きが活発となり、殊に有田焼は前月頃から上有田駅積出しの分でも一日十屯貨車一輌位づつを輸出しており、外に有田駅からの積出しもあるので、今日まで既に三百七十屯の輸出を見てストック品は一掃され、新製品にも全能力を挙げる好景気である。該輸出先は大連、新京、奉天等である。」

 その頃長い不況に喘いでいた国内経済も事変直後の犬養内間の金輸出再禁止によって不況から立ち直りを見せて来ていた。

それを裏付けるのは不況時にカットされていた労働賃金の上昇現象であったのである。

 有田で最も有力な労働組合は、有田町村の荷師達が結成している荷師組合だった。不況が深刻化した昭和五年には磁器商組合から一割五分の賃下げを要求された荷師組合は約半月ストライキを以て抵抗し、結局十銭の賃下げで解決している。だが、その後の景気回復と物価の騰貴を理由に昭和十年、荷師組合は二十銭の賃上げを磁器商組合に要求した。

 だが、磁器商組合がこれを拒否したため、三月二十六日から一斉総罷業を決行した。組合長木村健次は長期戦の構えとして大部分の組合員を八幡製鉄所の臨時人夫として八幡へ送った。その斡旋は八幡に居た組合員野田明一の兄貞四郎がしたのである。
 陶器市を目前にしてのストライキだったので、有田商工会がその調停に乗り出した。当時の商工会長は松本静二だった。だが、彼は先の賃下げの時の磁器商組合長だったし、現在は退任しているものの、磁器商の立場からして表面に出られないので、商工会委員の小池友三(大樽の酒屋で町議)森永捨吉(上幸平の呉服屋で区長)池田儀右衛門(泉山の赤絵屋)二宮都水(本幸平の陶芸作家)草場春三(上有田通運専務で中樽の町議)の五名が熱心に調停に努力した結果、四月十九日に解決した。即ち、荷師賃金一円六十八銭を七銭上げて一円七十五銭になったのである。当時組合員は百五十名であった。

 この年の十月十六日には有田陶磁器錦付組合が設立された。事務所は有田町一四七六番地で組合の事業としては意匠図案考案権登録、錦付材料の共同購入、共同電気窯の設置、共同販売などである。

出資口数九十七、一口の金額は二十円とした。理事は横田長市、諸限貞治、辻勝左衛門、藤本繁一、池田視行、監事は山口三代次、来田善吾が選出された。

 日華事変直後の昭和十二年十月には大連の県物産斡旋所は、満州での有田焼の現状を満州斡旋便りで伝えている。これを有田町史商業編2より左に抜粋する。

 「(前略)本県物産の代表とも言うべき有田焼は、満蒙の開発に伴い其需要を著しく増進し、今後邦人の増加に伴い益々発展の曙光あり、現在年間取引は食器類、美術陶器、工業用品を併せ約四十万円と予想せらる。
而して食器類は割烹向と一般大衆向とに区別せられ、割烹向は産地業者(小売商)の見本携帯需要家訪間により、殆ど全満に普及し、大衆向は各消費団体を初め専門店又は世帯道具店との取引旺盛を極め居れるが、何れも名古屋多治見等のものに比較して生地の優良なると破損の少なき点は我が有田焼の特色とする所なり。(中略)美術陶器は昭和八年本所開設以来、毎年春秋二回に亙り三越ホールに於て宣伝会を開き一般に紹介したる為め香蘭社、深川製磁会社等認識せられ名工柿右衛門、今右衛門等亦続々進出せられつつある。有田焼発展のため誠に意を強うするに足る。(中略)工業用品中諸碍子並に工業用耐酸磁器は品質優秀の故を以て需要家に歓迎せられつつある。

建築用タイルは、耐寒性に富み其品質良好なるを以て満州の如き寒地に於ては、最適のものと思考せらるるも、其価格不廉(安くない)にして未だ取引するに至らず。」とあり、当時の満州での有田焼の状況が明らかである。

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