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第十二章 戦時下終戦までの有田
(二)日華事変から太平洋戦争まで 1
 昭和十二年七月に起こった日華事変は矢継ぎ早な戦時体制に相応する法令の公布をもたらした。その内の一つとして九月十日に公布された「輸出入品等に問する臨時措置法」は、陶磁器業界に直ちに影響する重大法令だった。当時は実質的には東海三県の工業組合連合体に過ぎなかった日陶連は、これに対応して輸出増産と重要資材の適正使用の管理を行なうとの具体策を立てて、鉛、亜鉛、硼砂、酸化コバルト、酸化ウラニウム、石膏原石などの陶磁器用諸資材の確保を政府に要請した結果、政府はこれ等資材一切の輸入権を日陶連の一手に付与することを決定した。正に政府機能の一手代行であった。

 これを知った肥前陶業界の動揺と混乱は名状(状況を言葉で言い表わすこと)し難いものであった。工業組合では日陶連加入の可否が論じられ、陶磁器用資材業者は狼狽した。
有田としても何とか手を打たなければならなかったので、有田商工会は総会を開いて対応を講じた結果、政府に対する請願決議となった。その年の十二月、有田商工会は会長松本静二の名を以て県を通じて商工大臣吉野信次へ陳情したのである。

 それは陶磁器用資材の輸入権を日陶連一手に付与しないで、産額は東海地方の十分の一に過ぎないが、それに見合うだけの輸入権を佐賀長崎両県に付与してくれという請願である。だが、商工省の方針にただ追随する県が果たして上申したかどうか。又、軍部のお先棒を担いでいた商工省の新官僚等は一顧だにしなかったに違いない。理事長の梶原仲治、専務理事の竹下豊市は共に商工省から天下りしていて、その日陶連から十分の一の権利を佐賀長崎に頒けてくれというのを承知する筈はなかったからである。

 藤津陶磁器工業組合は請願の結果は待たずに十二月、県と協議した上で日陶連加入を決定した。翌年春には波佐見と折尾瀬の長崎両組合が加入を決めた。有田陶磁器工業組合も五月の総会で遂に満場一致で日陶連参加を決定したのである。一方、日華事変の拡大は金属代用品を陶磁器などに求める傾向を促進した。昭和十三年、県窯業試験場では一条場長を中心に全職員総動員の下に試験場開設以来初めてと思わるる程の真剣さで代用品の試作に取組み、その数は郵便ポストを初め十余点に及んだ。そして、九月十八日から開催の商工省主催代用品試作展に出品することとなり、県当局では参事会の決議を経て金一千円を研究費として試験場に交付することになった。  その年の十一月には、商工省が代用品見本製作貴に対し補助金を交付することになったので、有田陶磁器工業組合は組合員の便宜を計る為、申請などについて組合員の希望に応ずる事になった。同時にこの機運に乗じて奨励方針を確立し、各地に試作品の展覧や販売の斡旋、製造家への保護奨励などに熱心な活動を続けている。県では工業組合に対して八百十七円の補助をしている。

 昭和十四年四月二十五日の松浦陶時報によれば、左記の通り発明奨励金が原有田郵便局長に交付されている。

 「又も町の発明家に特許局から奨励金が交付された。

焼物の街有田町の原鉄雄氏は電信電話の配電碍子板取付用ボールトナットを研究中で特許局に対し奨励金の交付方を申請中であったが、二十八日県に千五百円の奨励金を交付する旨通知があった。(後略)」

 この代用品について前年十一月二十五日の松浦陶時報記事から左の通り引用する。

 「佐賀県有田郵便局長原鉄雄氏はかねて電信用碍子の鉄心棒が時局の影響を受け供給難となり苦痛を受けているのでこの代用品として欅を以て、腕木に取り付ける捻子は有田焼とし試作中このほど香蘭合名会社付属の電気試験場で試験の結果、風速百二十メートルに対しても聊かの変化を認めぬことが判明、熊本逓信局に照会中のところ、同局工務課でもこれを認め差し当たり鉄棒の最も不足する小二重碍子用として千個の注文を原局長あて発送、鉄棒代用上非常なる貢献をもたらすこととなった。(後略)」
 今まで任意団体だった仲買商の有田商人会も時勢に逆らえず産業組合法による組合になった。以下昭和十四年三月二十五日の松浦陶時報より「有田陶磁器卸商組創立す 産業組合法による肥前陶磁器の販売機関として先般来、計画中の有田陶磁器卸商業組合創立総会は四日午前十時から有田物産陳列館に於て開催、定款役員その他を決定、輝かしき販売戦線へのスタートを切ったが、組合員四十七名、出資総額一万七千六百五十円、初代理事長に松本静二氏を推薦、包装材料の共同購入、金融ならびに倉庫利用等その全機能の活動は今後の肥前陶界の動向に多大の貢献をなすものとして刮目(注意して見ること)される。」

 こうして有田陶業の各業態は産業組合法による法人にすべて改組されたのである。

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