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第十二章 戦時下終戦までの有田
(四)日華事変から太平洋戦争まで 3
 昭和十五年に当たる本節は、この年を最後に廃刊した松浦陶時報の記事から見ることにする。

 「昭和十五年一月二十五日有田焼の満州輸出間題

 新興満州国に対する陶磁器の輸出については今回一切満州生活必需品配給株式会社の手を経てしか出来ない事となり、先に輸出割当制実施について漸く神戸陶磁器輸出組合に加入、解決した矢先またもやこの重大間題に当面した有田陶業者の団体たる肥前陶磁器輸出協会では緊急総会を開催、対策につき協議した結果左記代表者を名古屋に派遣陳情する事となった。
山口秀雄、椋露地嘉八両氏が正式委員となり、それにカネ有松本商店、島健次、浅井秀秋三氏を加え出発したが、満州における小売、卸売の陶磁器一切が満州生活必需品会社を経由せねばならぬとすれば従来地の利を得て有田焼最大の輸出先のこととてその解決如何に依っては業界に多大の影響を与えるものとして大変重視されるに至った。」

 「三月二十五日有田焼対満輸出の新会社

 有田焼の海外市場として唯一の捌口たる満州国では先に内地より一切の輸入につき満州生活必需品会社の手を通じて行わせることとなり、当然陶磁器もこの中に包含されることになった結果、その対策につき種々検討考案されていたが、今回有田物産商会、カネ有松本商店、小山鉄次商店、椋露地嘉八商店、山口兵太郎商店、北島勝馬商店の六有力商店が有田村の青木兄弟商会、長崎県下波佐見村の小柳製陶所の両窯元と共に発起人となり、有田陶磁器株式会社を結成、対満輸出へ積極的に邁進することとなり、去る二日、約三十余名の株主を集合、創立総会を開いた。現在有田焼業者の対満輸出を行っている者は約六十名を突破しているだけに右発起人以外の業者が更に別個の会社を結成するか、或はまた小売業者のみをもって別個に会社を結成するか、有田焼輸出販売戦線の一大異常として大変重視せられている。 なお有田陶磁器会社の社長は松本哲雄氏、専務取締役に椋露地嘉八氏が選任され、資本金は十五万円で半額払込。」

 「三月二十五日 肥前陶磁器貿易株式会社

 有田陶磁器株式会社組織以来その去就(どんな動きをするかという態度)に付き注目されていた篠原、浅井、成富その他の業者ら五十余名は今回、新たに松本栄治、篠原兼男、浅井秀秋、成富清九郎、馬場森作、北島虎吉等を発起人として、肥前陶磁器貿易株式会社を組織対満輸出に乗り出すこととなった。因みに同会社は資本金十八万円(内払込七万五千円)とし(中略)来月四日創立総会開催のはずで、卸商と小売商との合併会社だけに今後の動向に多大の興味が懸けられている。」

 「七月二十五日 有田焼の共販基礎案成る

 佐賀県が全国に誇る有田焼は内部のごたごたと検査制度その他機構の不確立から近く実施される陶磁器の公定価格制から締め出しの形勢で業者の奮起如何はその浮沈を賭けるものとして注目されていたが、柏木経済部長の肝煎で五日県庁で有田陶磁器工業組合及び同卸商業組合代表者が評定の結果、愈々共販の協定に到達、ここに多年の懸案も解決に見えたが、その後工業組合内部に異義が生じたものの、十九日県当局の熱意により大体左記の通り決定を見た。

 一、有田陶磁器工業組合員が製造した製品は工業組合の検査を経た後有田陶磁器卸商業組合に引き渡すこと。
 二、検査は工業組合の検査に従うこと。
 三、荷渡し方法は製造工場又は倉庫で裸渡しとすること。
 四、選別方法(値段格付)並品は一等品立切。二等品七割五分。上等品は一等品立切。二等品大物六割五分。小物六割。
 五、代金決済と保証金は現金とす。但し荷渡し後四十日以内の約束手形は認めること。
 六、格付方法は工業組合並びに商業組合から各五名宛委員を選出決定。
 七、取引価格は公定価格による。マーク入りは一割以内増しとす。」

 「八月二十五日 窯業試験場国営移管有望

 旧臘末の本県会で満場一致国立移管に決定した有田の県立窯業試験場では、地元はもとより県当局を始め本県選出代議士その他各方面より商工省に国立陶磁器試験所九州支所としての猛運動中であるが、昭和十六年度予算編成期を前にしてある程度商工省の了解を得たらしく上京委員より朗報あり、今後は大蔵省企画院などの方面へ予算成立上の側面運動が必要と見られるに至った。因に九州支所としての建前から、先に九州沖縄陶磁器技術官会議で有田の県立窯業試験場を国立に移管することは議決してはいるが、なおこれを強化させるためには九州各県知事連名の陳情書などが最も意義あるものとされ、今後の活動は実現前の猛運動として注目される。」

 大正十三年創刊以来町の情報紙として特異の役割を続けて来た松浦陶時報は十月二十五日号を最後に十七年にして廃刊したのである。
その社説は「肥前窯業界は何を以て新体制に順応せん乎」であるが、悲憤慷慨の余り難しい漢文調だから以下現代文に直して掲げる。

 「このような時局下、我が肥前窯業界の中心である有田の現状は果たしてどうであるか。私は筆にするには忍びないが、故事にある諸葛孔明が軍律に違反した部下の馬謖を泣いて斬ったような心境で、私情を押えて二、三の例を指摘し、業界の反省を促す事もあながち無駄でないと信じる。

 先に満州陶磁器問題に関し、六人の卸業者が有田陶磁器会社を創立したのに対して、六十人余りの卸小売の商人が肥前陶磁器貿易会社を設立して対抗、鏑を削って争っている。

 又、一方では有田陶磁器錦付工業組合は、新旧両派に分裂して抗争中でどちらか正しいかと裁判所に訴訟を起こしている。旧派は組合から脱退して錦付振興会を結成、有田、曲川、大山及び伊万里方面の同業者と手を組み益々同業者間の溝を深くしている。

 このような同業者間の抗争は遺憾千万であるから、町当局や町の有識者達がその調停に努力されんことを望む次第である。今や我が有田は中間工場の設立や窯業試験場の国営移管など大切な時である。肥前窯業界、特にその主産地である有田の商工業者の諸氏が、時勢の動向をよく見通して目分の利欲だけに執着しないで、国策に順応して産業報国の大道に邁進されんことを切に祈るものである。」
 新体制運動の結論として昭和十五年十月、大政翼賛会が発足し、総裁には首相近衛文麿が任じられた。佐賀県では十二月三日、知事を支部長とする支部結成大会が開かれた。翌年一月には町村支部長として有田町青木幸平、有田村青木甚一郎が決定した。三月には夫々翼賛青壮年団が発足している。

 懸案の県立有田窯業試験場の国立移管は、翌年の太平洋戦争突入によって戦時体制が強化されたため、遂に実現を見なかったのである。

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