Home Back 57/58 Next

第十二章 戦時下終戦までの有田
(五)太平洋戦争開戦から終戦まで
 昭和十六年十一月、全国陶磁器製品をすべて包含する改正公定価格が制定された。価格は一級から十五級に区別され、流通上の段階を日陶連価格と卸売業者及び小売業者価格とした。一例として三寸六分の蓋無飯茶碗八級は日陶連一四.三銭、卸売二一.七銭、小売三十銭である。生産者価格は明示されていないが、これは日陶連の共販という意味である。この場合の生産者の手取価格は、日陶連価格の五分引ということが附則で規定されている。

 製品の等級格付は、日陶連本部に設置した中央格付委員会が全国の代表的な標準見本に基づいて等級の基準を設定して各産地に示達する。各産地は又、地方格付委員会を置いて中央格付の方針を体して製品の等級を決定する。
日陶連の検査員は委員会の立会と同時に工場毎に製品検査を行なって、合格証紙を交付しこれを製品に貼付させて産地卸商に引き渡すことにしたのである。

 政府は公定価格の制定に当たり、芸術品については公定価格は適用しないで自由価格とし、丸芸の表示をさせた。芸術品と一般品の中間に「技術保存を必要とするもの」の分野を設けて、価格の統制から外すと共に、その維持育成のため資材供与の便宜その他の保護策を考えることにした。これが丸技製品である。

 佐賀県では、芸術品として有田の松本佩山。技術品として、有田では香蘭社、深川製磁、柿右衛門、今右衛門、満松惣市、川浪喜作、大川内は市川光春、小笠原春一、唐津は中里太郎右衛門が昭和十八年一月二十六日付で指定を受けた。

 佐賀県では唯一人丸芸の認定を受けた松本佩山については、有田町史陶芸編から見る事にする。

 「(前略)初代松本佩山は明治二十八年(一八九五)九月十一日、有田町上幸平に生まれた。本名は勝治、松本米助の四男である。大正二年(一九一三)佐賀県立有田工業学校陶画科を卒業した。卒業後は各地でいろいろな職についたが、大正九年有田に帰って窯焼きをはじめた。大正十二年ごろには大型火鉢に型紙絵付けを工夫し、昭和三年には本窯釉彩盛り上げ法を完成して翌年特許をとった。昭和四年第十六回商工展に「淡青磁果文花瓶」を出品して入選、同五年ベルギーリエージュ万国博覧会でグランプリを受賞した。昭和七年ごろから佩山を名乗った。(中略)

 昭和八年第十四回帝展に入選、翌年も入選した。
同十一年秋の文展に入選してから十二年と十四年を除いて十八年までの文展に入選した。昭和十七年には戦時下において商工省から芸術保存者の指定を受けた。

 昭和二十年鹿島市の矢野平八の招きに応じて同市に移住、矢野酒造の工場内に赤絵窯を築いて製作活動を続けた。二十二年日展委員となり、第三回日展に入選、以後第六回(出品せず)を除いて二十七年まで連続入選した。二十三年には矢野酒造の工場内に本焼き窯を築き、有明海の潟土を用いて鹿島焼を創始するなど、意欲的な製作活動を続けたが昭和三十年六十才のときいっさいの展覧会出品をやめた。昭和三十五年郷里の有田町に帰り日恵窯を開窯したが翌三十六年十月八日に没した。」

 計画生産の実施に伴い、設備、燃料その他の資材及び労力の有効利用を図り経営を合理化するため、製造業と錦付業を対象とする企業合同の具体策を関係府県庁に於てたてて、昭和十七年一月末までに企業の整理統合を実施せよと商工省が命じたのである。

 その結果、佐賀県では四百四の工場が六十六になった。この企業整備によって転廃業する者に対しては、残存業者より共助金を交付し、又、遊休となる設備は国民厚生金庫が買い取る事にした。有田でこの整備令の適用を受けなかったのは、香蘭社、深川製磁、岩尾磁器、有田製陶所、青木碍子、工栄社だったので、当時世人はこれを有田の六大会社と称した。

 大戦勃発と同時に対外的な交易業務を一手に取り仕切る機関として官営の交易営団が生まれた。
だが、陶磁器だけは民営機関を残して営団の代行業務を行うことが承認されたので、昭和十八年十二月、各輸出商社の実績を統合して名古屋に資本金三百万円の日本陶磁器交易会社が設立された。社長飯野逸平、専務取締役永井精一郎、有田からは取締役に松本哲雄、監査役に松本栄治が任じられた。

 翌十九年三月、上幸平浅井商店の一部を借用して有田支店が開設された。支店長には本幸平出身で当時小倉精陶商会の支配人だった嬉野芳郎が起用された。有田支店の業務は戦争激化と共に減退して翌二十年初め唐津から上海へのジャンクでの輸出が最後になった。

 しかし、石炭や労力の不足のため、陶磁器の全国生産額は激減したのに有田地方は依然として活況を続けた。それは時局が要請する軍需用品や金属代用品の製造による。

軍需としては深川製磁の海軍食器であり、青木碍子の鉄心棒代用の木心棒を取り付ける碍子の陸軍納入等であった。

 この木製心棒は第二節で記述した原鉄雄の発明によるもので、有田陶磁器会社によって十八年に設立された有限会社有田金属代品製作所(二十年一月株式会社有田精機工作所に改組改称す)で製造して西部軍へ納入した。

 昭和十八年、磁器製で金属の缶詰容器に匹敵する機能を持つものとして大日本防空食糧株式会社(社長小沢専七郎)が発明した防衛食器を名古屋の瀬栄陶器が先ず取り上げて製品化した。だが、同社は石炭に恵まれた有田地方で直営で製造すべく有田陶磁器会社の中に支店を設けてその経営を椋露地嘉八に委嘱した。
そこで企業整備で遊休工場になっていた藤津郡久間村の永田工場を直営工場として、これを中心に藤津郡や波佐見の窯元数人を下請工場にし、椋露地が終戦まで管理運営した。

 企業整備によって十七年五月に創立された協和新興陶磁器有限会社の専務取締役清水時一は金属爆弾の代用品として磁器爆弾の特許を個人で所有していた。それをこの工場で製造したいと望んだ。だが、社長の竹重忠次が拒否したので、退社して十九年七月、松本哲雄や椋露地豊次の協力で、同時に協和新興を離脱した有田陶磁器会社の製陶工場に日本兵器窯業株式会社を新たに設立した。そして、磁器爆弾の製作に着手した。

だが、高さ一尺以上の大型のため真円に焼成する事が出来ずに困惑していた時、相模海軍工廠が名古屋の瀬栄陶器に発注している陶製手榴弾の製造量が少なく他に協力工場を物色していると清水が聞いて早速手榴弾の製造に切り替えたのである。そして、外尾山の有田陶業有限会社(社長青木俊郎)を協力工場として大量生産に着手したのは、十九年末の事だった。だが、実戦には遂に用いられなかったという。

 同じ頃、海軍では、本土空襲に猛威を振るっていた米軍のB29要撃を目的とするロケット飛行機をドイツの技術協力によって開発したのである。呂号兵器と称したこの飛行機の燃料を製造する工程には各種の磁器製品が大量に必要とされたのである。
 そこで、メーカーとして先ず耐酸磁器に経験のある日本碍子を筆頭に松風工業、高山耕山、大阪陶業、日本陶管及び有田の岩尾磁器、それに曽根磁叟園、日本タイル、東洋陶器、伊奈製陶、日本陶業、有田では香蘭社、有田製陶所、工栄社、山本火鉢等が協力工場として製作に当たった。

 海軍の試験では有田の磁器が最高とされている。又、当時技術中尉で呂号の監督官として名古屋にいた、後年の岩尾磁器社長岩屋煕の話によれば、終戦一ケ月前の七月には有人ロケット機の「秋水」は滑空テストに成功しているが、実戦には遂に登場しなかったという。

 昭和十八年中頃、瀬戸の陶業者井上順治の進言によって、中根瀬戸陶磁器試験場長は大蔵省造幣局に陶貨を作って銅貨の回収を図ってはと申し出た。

造幣局では瀬戸の経験をもとにして、京都の松風工業と有田の協和新興陶磁器にも製作させることになった。二十年二月十五日には協和新興の社内に大阪造幣局の有田出張所が設置され、同社々長竹重米雄、同社支配人篠原英男、試験場良一条氏喜司が造幣局嘱託として発令された。 二月二十日、同社は一銭陶貨日産三百万枚とする製造計画書を造幣局に提出してその製造に着手した。だが、終戦後の八月十九日、陶貨製造は命令によって中止されたのである。

Home Back 57/58 Next
Ads by TOK2