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皿山風土記 江越礼太・徳見知愛 共作

それ長崎の県廰を
西松浦郡皿山は
人口凡そ六千人
以前藩治のころ迄は
十六軒の赤繪屋と
明治の始め辰の年
他人の權利を妨けず
同職稼業と商賣も
偖て焼物の始めより
永世頃の其むかし
伊勢の人とも支那人とも
支那の陶器の製造を
善き其土を発見し
古雅高等の染附は
其後慶長年中に
連歸られし韓人の
小城郡多久に居住して
宜しき土のあらざれば
曲川なる亂れ橋
たどり歩きて見出しし
たから有田の泉山
木陰小暗き山手にて
金ケ江氏を始めとし
皆韓人の末ぞかし

北に距ること二十餘里
戸數一千三百餘
陶器を産する土地にして
百數十戸の窯焼に
其有り數も限りしに
古昔にかへる王政の
民の自由も立伸びて
次第に廣く成りにけり
今に三百七十年
五郎太夫祥瑞とて
云ふは慥に知らねども
習い覺えて此郷の
餘多の品を造りたる
世に比類なき器なり
朝鮮攻の歸陣の時
金ケ江村の李参平
焼物造り始めしに
家を移して此郷の
此處へ來りて遠近と
其石土の比類なき
このころまでは皿山も
田中の村といひしとぞ
百田深海岩尾など
皿山よりは程近き

里の畑中野原より
何の時代に何人の
唯掘出しと唱へつゝ
貴び愛づる器なり
東島氏が長崎にて
喜三右エ門といふ人に
未だ色取もよからぬを
宜敷ほどを得たりとぞ
又吉太夫といふ人が
おそれながらも外國に
其權兵衛といふ人が
色ことことに繪書して
酒井田氏の柿右エ門
賣弘めしも今は早
此時赤繪も染附も
窯焼畫書細工人
世に名も高き古伊萬里は
其後外國貿易の
久富與次兵衛藏春亭
力の限り盡しつゝ
かけて商賣開きしは
禁裡御用の來歴は
仙臺侯の伊達氏が
五郎兵衛といふ者を

掘出す古風の土焼は
埋めて置きし物ならん
舊きを好む風雅男の
赤繪といふは伊萬里津の
支那の人より習いしを
教へ傳へて附くれども
呉須權兵衛が苦心して
其品物を長右エ門
長崎に出て賣りしこそ
輸出をなしゝ始めなり
更に歳月工夫して
正保三年六月に
また長崎に持出だし
二百餘年の古昔なり
大いに業や進みけん
数千餘人もありしとぞ
此年頃の品ならん
道も暫く絶えたるを
深く歎きて我家の
終に和蘭支那までも
實に中興と申すべし
寛文のころ奥州の
江戸の商人伊萬里屋の
此皿山に遣はして

陶器を誂らえへ造れども
時に辻氏二代目の
器の勝れてありけるを
仙臺侯に進めけり
大内にこそ捧げしが
器なりとて其後は
かしこき仰蒙りて
捧げ奉ることゝなり
安永午の六月に
名に顯はれし陶器職
此の喜平次の發明ぞ
只一面に並べしを
積み重ねたる其上に
二段重ねの天秤は
日耳曼國のワグネール
造れる品や繪薬の
博覧會の始まりは
佛蘭西國に開きし時
僅なりしに係はらず
巨擘ならんと第一に
三つの卯年の五月なり
墺太利の博覧會
伊兵衛田代慶右エ円
高さ六尺餘りある
名譽の賞ぞ得たりける
陶器の珠を取添えて
耀かさんと眞心に

是ぞと思ふ品もなし
喜右エ門にて造り得し
五郎兵衛携へて
侯の喜悦限りなく
實に清らかに潔ぎよき
絶江ず御用を進めよと
御所の器を辻氏が
又四代目の喜平次は
常陸の掾に任ぜられ
玉の器の極眞は
陶器を窯にて焼く時は
天秤又はとちみにて
又一と際の工夫して
百田辰十始めたり
暫く此地にありしより
使ひ方など進みたり
未だ維新の以前にて
我邦よりの出品は
此處の陶器の産物ぞ
稱せられしは慶應の
次は明治六年の
命せをうけて平林
出品方を掌り
花瓶は名立ちの品なれや
深海深川手塚辻
國の光を萬國に
四人力を戮せつゝ

上に願のゆるされて
名も薫ばしき香蘭社
捧けまつれの仰せさへ
費府の博覧會
家の財は盡すとも
自費出品の勉強は
名譽の賞を取てけり
手塚氏の龜之助
深川氏の卯三郎
同十年の内國の
名譽の品を陳列し
生徒の手して鳳紋の
續いて翌年佛蘭西の
又一層の手際にて
一丈餘りの花瓶まで
白川學校生徒等が
文部省より特別に
受けたる賞の金牌は
深川氏の榮左エ門
渡り視察し製品の
西洋向を研究し
誂らへ明治十二なる
元より此處の學校も
場局も開けゆく程に
年稍長けし生徒等の
就學の功や奏すらん

結び固めし約束は
御所の御品は此社より
受けしは明治八年なり
四人は互に勵まして
名譽は餘所に譲らじと
いかで目途の違ふべき
此會場に臨みしは
深海氏の墨之助
外國渡航の權輿なり
博覧會にも該社より
審査の評も満足に
賞牌こそ得たりけれ
博覧會の出品は
四尺に近き大鉢や
取陳ねたる其中に
書畫合作の額鉢は
御買上とは成にけり
さても著しき名譽なり
佛蘭〈西)國より英國に
凡ての繪柄形式等
多くの製造器械をも
年の春にぞ歸國せり
其工業の始めとて
機械も未だ備はらず
餘力に依りて年々に

*皿山風土記と『改作・皿山風土記』
「肥前陶磁史考」に紹介されている201行からなる長詩。白川小学校の校長であった江越礼太と友人徳見知愛の共作という。いつごろの作かは明らかでない。内容からして明治9年(1876)から3、4年の間に出来たものと推定されている。「佐賀の文学」の著者池田賢四郎は詩の趣などからして「新体詩抄」以前のものであることは間違いないとしている。子ども達に有田の歴史え教え、焼き物に興味を持たせようとの願いから作られた。当時、子どもだけではなく大人も暗唱してよく口ずさんだといわれる。

次項の横尾謙作『改作・皿山風土の記』は140行の長詩。江越・徳見の原詩に有田が長崎県とある(明治16年から佐賀県)ことや、李参平以前に五郎太夫祥瑞がよき土を発見した」とあるなど、通説に合わない表現があることから改作を思い立ったものと見られる。

*徳見知愛
旧小城藩士。明治8年の1郡を1大区とする行政区画の改定によって松浦郡は第5大区となり、その中の第12区に大木付、皿山、新村、曲川村、山谷村、中里村、大里村がなった。
徳見はその戸長で、扱所は大木村に置かれた。16年に大木、曲川、山谷3村組合立の涵養小学校が創立されると、徳見はその校長になった。28年10月12日に死去。長男知敬は絵画を納冨介次郎(介堂)に学び、32年に有田徒弟学校の教師となり、引き続き有田工業学校教諭を務めた。

*新体詩と新体詩抄
新体詩とは明治時代に現れた新しい詩型。漢詩に対して新時代の思想や感情を盛るために西欧の長詩型にならった詩の形式。これが流行する気運を開いた本が「新体詩抄」で明治15年8月に出版された。東京大学教授外山正一(心理学)、矢田部良吉(植物学)、助教授井上哲次郎(哲学史)が、西洋詩の翻訳14編とそれを参考に創作した5編の詩を持ち寄って編集した。作品の水準はさして高くなかったが、3人とも新詩創成の野心的な意図を持ち、新体詩という名称によって、短歌、俳句を中心としてきた日本詩の伝統に新しい詩の領域を開いた。同書の序言で井上は「明治ノ歌ハ、明治ノウタナルベシ。古歌ナルベカラズ。日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ。漢詩ナルベカラズ。コレ新体ノ詩ノオコルユエンナリ」と宣言した。

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