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人あり 陶業近代化のリーダー
公選初代町長 江副孫右衛門
カット: 柴田コレクションから
窯業界の大立者であったこの人の経歴には何かと一という数字がついて回ります。白川尋常高等小学校(いまの有田小学校)の成績が一番。佐賀県立有田工業学校の第一回卒業生。有田町の公選町長第一号。そして名誉町民第一号。窯業界への登場も、ディナーセットの日本最初の作り手としてでした。

おさな友だちに"マゴエンシャン"とよばれた彼の生家は町の中心、上幸平・柿の木小路(かきのきしゅうじ)にありました。祖先は佐賀藩の有田皿山代官所の役人だったようです。それが廃藩で窯焼きになったといわれ、明治はじめの陶業盟約に祖父と父親の名前が上幸平の窯焼きとして出てきます。

父江副八蔵は職人肌の男でしたが、教育にも理解がありました。
窯焼きの家をつがせるはずのマゴエンシャンを、楽ではない暮らしの中から有工の製陶科、東京高等工業の窯業科へと進ませています。有工は定員百人で開校したものの明治37年の第一回卒業生は12人。東京高工にしても、42年の卒業生はたった11人。まだ焼き物屋に学問などいらないという時代だったのです。

そのマゴエンシャンが家業をつがずに創立早々の森村組系の日本陶器合名会社(現名古屋市西区則武新町〉に就職したのは、八蔵が石炭窯の導入に失敗し、継ぐはずの窯がなくなったからです。八蔵の積極経営が裏目に出たのは不運でしたが、それが息子により大きな舞台を与えることになりました。人の幸不幸はよられたナワみたいだとは本当です。

写真: 大水害の被害状況を視察する三笠宮
▲岩谷川内で昭和23年9月の大水害の被害状況を視察する三笠宮(写真中央)と案内役の江副町長(右隣の蝶ネクタイの人物)。後方は全壊した山徳窯の登り窯。

そのころ日本陶器はディナーセットの開発に賭けていました。26歳のマゴエンシャンは技術部常務主任になり、オーストリアとドイツで白色磁器の生地づくりや石炭窯の焼成技術を学び、新製品開発の先頭に立ちました。
幾度かの失敗のすえ、見事なディナーセットができあがったのは大正3年。製品は本社所在地の地名をとってノリタケチャイナと名づけられ、第一次大戦の景気もあってヒット商品になり、社勢を伸ばしました。

マゴエンシャンはその後、高圧碍子、点火碍子、耐酸磁器の創製にも成功します。戦時中は日本碍子や日本特殊陶業の社長をしていましたが、*海軍と衝突して辞めてしまいました。戦後2年ほど郷里*有田の町長を勤めましたが、経営の危機にあった東洋陶器の再建のため社長として復帰します。このような生涯をつらぬいていたのは新知識へのどん欲さと骨太い精神力です。窯焼きの家に生まれた男のもつ気性といえるかもしれません。
(辻光恵)

写真: 江副孫右衛門
江副孫右衛門の略歴

明治18年2月6日出生。有田町1257番地の陶磁器製造業江副八蔵の長男。37年県立有田工業高校卒。42年7月東京高等工業学校窯業科卒。日本陶器に入社。昭和11年10月日本特殊陶業社長。13年6月日本電磁器共販取締役、14年4月日本碍子社長。15年9月大華窯業取締役。16年6月共立窯業原料社長。19年5月すべての取締役と社長を辞任。22年4月有田町の町長に就任(24年12月辞任)。24年1月東洋陶器社長。長期ストでゆらぎかけた同社の再建を託された。29年4月日本化学会から化学技術賞。31年4月窯業協会会長。33年11月陶磁器工学への寄与と技術改善に専念した功績により日本学士会からアカデミア賞を受け、日本学士会の名誉会員となる。
写真: 日本陶器時代の江副孫右衛門
▲日本陶器時代
38年1月東洋陶器会長(昭和45年3月から東洋機器)。39年4月有田町名誉町民第1号。39年8月24日、79歳て死去。

孫右衝門の∃ーロッパ研修

明浜42年、窯業界では珍しい高等教育を受けた技術者として日本陶器に入社した孫右衛門は、45 年7月、ヨーロッパの製陶技術の習得のため旅立った。ドイツ・ベルリンのゼーゲル研究所や製陶工場なとで焼成や生地・釉薬の調合などについて学んだ。その見聞などをもとに同社は業界初の石炭焼成トンネル窯を建設。また硬質白色磁器による8寸皿の焼成に成功し、待望のディナーセットを完成させることにつながった。

写真: 柿の木小路
▲柿の木小路国の伝統産業都市モデル地区整備事業により昭和59年度から61年度にかけて柿の木小路は三間坂石で舗装された。
*海軍との衝突
江副が社長だった日本特殊陶業は戦時中は軍用機の点火栓を主製品にしていた。海軍の増産要求に対して江副が「徴用工や動員学徒が主力ではこれ以上の生産は無理だし、粗製乱造は良心が許さない」と突っぱねたため両者の関係が悪化、江副は19年5月に全ての役職を降り、名古屋の自宅で悠々自適の暮らしに入った。

*町長になる
昭和22年4月に第1回統一地方選挙が行われた。有田町議で江副と幼友達の椋露地嘉八たちは江副に会いにゆき町長就任を懇望した。無投票と助役2人制が条件だった。当時江副は森村組系各社のご意見番として多忙だったが承諾した。月の半分を有田で過ごして執務した。

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