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人あり 古伊万里を里帰りさせた−
愛郷者 蒲原 権
カット: 柴田コレクションから
いまは九州陶磁文化館に常設展示されている『*蒲原コレクション』は、101点からなる輸出用古伊万里です。これを2億円とも3億円ともいわれる私財を投じて海外から買い集め、有田町に寄贈したのは蒲原権(かもはらはかる)です。蒲原は明治29年(1896)に赤絵町の宿屋(屋号は佐賀屋)のひとり息子として生まれています。ですから焼き物とは生まれつき縁があったわけですが、蒐集家にまでなるについてはこんな逸話があります。長崎高等商業学校から三井物産大阪支店に入社して間がないころ、上司が家に呼んでご馳走をしてくれました。ところがその席でひどく叱られてしまいました。実はこの上司は古美術商の娘婿で、有田焼それも赤絵には目のない人でした。蒲原が有田出身というので自慢の品を並べ、どんな感想が聞けるかと楽しみにしていたのに、まるで興味を示さない。 たまりかねて「有田出身のくせにこの素晴らしい工芸品に何の関心もないのか。キミには郷土愛がない」と怒り出したのです。

以来この人のお供をして関西各地の古陶磁店を回るようになり、中島浩氣や*大河内正敏ら陶磁史研究家の著書を読み漁りました。昭和21年に三井を退職して有田に戻ったのですが、いつの日にか、ふるさとに国際的な陶磁美術館をと期するようになりました。

昭和49年、ドイツのドレスデン美術館所蔵の『古伊万里里帰り展』を開く計画が持ち上がりました。その会合に出席した帰りの車中で蒲原は不思議な夢を見ます。古伊万里の*沈香壺に描かれた女が現れ、有田に連れ帰って、と哀訴するのです。

写真: 蒲原コレクション
▲蒲原コレクション

そのことが彼をして、美術館を早く実現させるには自らヨーロッパに渡って古伊万里を収集し、それを寄付するしかないと思い立たせたのでした。

その年の秋、遠縁の陶磁器商*蒲池昭三を伴ってヨーロッパヘ向かいました。
わずか10日間でアムステルダム、パリ、ロンドンの骨董屋を駆け足で回り、134点の有田焼を買いつけました。年の暮れにそれが有田に着きました。うれしくて仕方がない蒲原は古伊万里たちの長年の疲れをいやしてやろうと、蒲地とふたりで、一つ一つ風呂場で洗ってやりました。さらに大晦日には、「何百年ぶりかで郷里の正月をさせてやらにゃいかん」といって、鏡餅と屠蘇を供えました。

古伊万里たちはいま九州陶磁文化館の特別コーナーに納まっています。作家角田房子が「ほんとうの愛郷者、愛国者」と評した蒲原は、郷土のために数々の功績を残し、昭和62年3月、91歳で世を去りました。
(清水のり子)

写真: 蒲原 権蒲原権の略歴

大正9年4月から昭和21年4月まで三井物産に勤務。23年から32年まで佐世保市・西日本鋼業KK専務取締役、32年から55年まで同代表取締役社長。39年に有田町文化財保護審議会が置かれてから54年11月まで審議会の委員、委員長。天狗谷、掛の谷、猿川、山辺田の各古窯跡の発掘調査に尽力した。55年9月、有田町名誉町民に。
写真: レマン湖のほとりで蒲原さん
▲蒲原コレクション品々を買付けに行った帰途、ジュネーブのレマン湖のほとりで蒲原さん(右)と蒲池さん(昭和50年)

*蒲原コレクション
写真: 古伊万里が福岡空港に着いた
▲買付けた古伊万里が福岡空港に着いた(昭和50年)

蒐集した134点の中から101点を選別して展示。最初は有田焼卸団地の賞美堂ギャラリーに「オランダ貿易資料館・蒲原コレクション」として公開。51年9月に有田町が歴史民俗資料館の建設を計画したと同時に全部を町に寄贈。55年11月、佐賀県立九州陶磁文化館の開館に伴い町から県に寄託された。展示品は江戸中期につくられた輸出用古伊万里が中心。高さ70〜80センチの染め付けや染錦の沈香壺、直径45〜65センチの大皿や大鉢などは絢爛を極める。
当時ヨーロッパに流行した東洋趣味を大いに刺激した作品群である。

*大河内正敏(おおこうち・まさとし)
明治11年〜昭和27年。陶磁器研究家。東京大学工科卒。工学博士。理化学研究所長。古陶磁研究の先駆者。大正3年に陶磁器研究会「彩壺会」を発足させ、古陶磁の芸術的鑑賞と科学的陶磁研究を主張した。

*沈香壷(じんこうつぼ〉
蓋(ふた)のついた磁器の大壺。香料をいれてしばらく置き、芳香が中に満ちたころ蓋をとって室内に香気を放つのに使った。

*蒲地昭三(かもち・しょうざぶ)
有田町歴史民俗資料館協議会会長、賞美堂会長、肥前陶磁器商工協同組合前理事長。

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