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皿山遠景・II 進む窯業の分業化
生地屋さんや運び屋さん
カット: 柴田コレクションから
「お先にどうぞ」。そう書いた札を後ろに下げ、幌をかけた軽トラックが道路わきをゆっくり走って行きます。荷台には棚板がわたされ茶碗や皿の生地がきれいに並べてあります。生地の運搬を専門とする業者の車です。たいてい車は一台、運転も主人がする生地の運び屋は、焼き物業界で進んでいる分業化の最先端の家業といえるかも知れません。「きじ」は生地とも素地とも書きます。定義は、(1)成形をしたナマ土のもの、(2)素焼きまですませたもの、(3)うわぐすりもかけて絵柄をつけるばかりのものと、まちまちです。

これを専門とするのが「きじやさん」で有田町では春の日差しや微風に生地を皿板に並べて干す風景が見られます。雨に濡れたら時によって全部だめになることがあるそうですし、霜などによる寒気も大敵です。
成形にはいろんな方法がありますが、大きく分けたら、ロクロ成形と鋳こみ成形です。湯のみ、茶碗などの「まるもん」と呼ばれる単純な円形の器はロクロ成形。土瓶や花瓶などの多角形の「異形(いけい)もん」は鋳こみ成形が普通です。

量産第一の工場では、手ロクロや蹴ロクロはほとんど姿を消して、機械ロクロと自動機械ロクロが中心になっています。機械化・自動化は急ピッチです。ローラーマシンとよばれる大仕掛けの成形機械も生まれました。練り土を高速で成形し、乾燥収縮が少なく乾燥時間も短くなりました。土の供給、型の交換、成形と乾燥、成形品の型からの取り出しまでを機械がする成形ラインによって量産が進みました。鋳こみで一般的なのは「流しこみ成形」です。吸水性の強い石膏で作った型に泥状の陶土を流しこみます。

20分ほどで石膏がかなりの水を吸い取ります。残りの水を流し出してさらに40分ほどすると、型にそって密度の高い陶土層ができます。それを取り出して仕上げをすれば、でき上がりです。

型の中の陶土は繊細な模様も写しとるので精巧な成形ができます。型と陶土との調整に気をつければ、さほど熟練を必要としないことが「きじやさん」の分業化を促しました。農業片手間の業者も多くなっています。

ところでこの鋳こみ成形法は18世紀にフランスの*セーブルで考えられました。日本人でそれを最初に学んだのは明治6年(1873)に渡欧した*川原忠次郎だといわれます。川原は有田町大樽で生まれた窯業家。
納富は小城の生まれで、佐賀県工業学校長のころ、有田分校を独立させて県立有田工業学校への道を開いた人です。
(前田敏江)
写真: 生地屋で作った生地を窯元に運ぶ
▲生地屋で作った生地を窯元に運ぶ運送専門の業者

写真: 納富介次郎
納富介次郎の略歴
(有田工業高等高校提供)
弘化元年(1844)、4月小城郡に生まれる。名は介次郎、号は介堂。
父は小城藩家臣柴田花守で、後佐賀本藩納富六郎左衛門の養子となる。明治6年のオーストリアの万国博賢会に川原忠次郎らとともに渡航し、ワグネルの世話で欧州各地の製陶技法を学んで帰国した。9年にはアメリカ・フィラデルフィア万国博覧会に審査員として出張し、帰国後、塩田眞らと江戸川製陶所を起こし石膏模型鋳こみ法、匣鉢(さや)および皿製造法などの新技術を各地の青年に教えた。20年に石川県工業学校、27年に富山県工業学校、29年に香川県工業学校の各校長を歴任した。34年、佐賀県工業学校校長に任命され、前年に設立された有田分校を有田工業学校に独立させた。大正7年3月9日74歳で死去。

*セーブル
パリ西郊の小都市。陶磁器生産で知られる。第1次世界大戦後、ここで連合国とトルコとの講話条約が結ばれた。

*川原忠次郎
寛永4年4月、大樽に生まれる。父川原善之助、母ますの4男。諱を朗といい、通称を忠次郎といった。幼少の頃から谷口藍田(儒学者)に師事して学問を修めるなか、家業の酒造や柞灰の販売に携わる兄善八を助けた。

明治3年、22歳の時有田郡令百武作十が伊万里商社や横浜・東京・長崎に商社を設立し、その横浜商社の主任として貿易業務に従事した。翌年廃藩によって商社も消滅。有田に帰っていた忠次郎は明治5年の暮れ、翌年オーストリア・ウィーンで開催される万国博覧会の随行員に任命された。明治6年工部大丞佐野常民を副総裁とした一行は英船で横浜港を出発した。

博覧会閉会後、同郷の納冨介次郎、京都の丹山陸郎等と共にボヘミアの製陶地で技術を学んだ。
写真: オーストリア万国博に参加した一行の記念写真
▲オーストリア万国博に参加した一行の記念写真。前列中央が佐野常民。その左がワグネル。前列右端は納富介次郎、後列左から3人目が川原忠次郎(中村公一さん蔵)

この地で機械ロクロや石膏鋳こみ等の斬新な成形技法や、匣鉢の合理的な形状と積み方等を研究し7年2月帰国した。

その後12年、精磁会社の設立にあたっては出資金3干円を以て社員として参加した。16年のアムステルダムの万博に派遣され、リモージュで最新鋭の製陶機械一式を購入契約して帰国したが、その後支払いや工場据え付けなどに問題が多発し、その無理がたたって明治22年1月、41歳で死去。

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