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皿山遠景・II 消えていく荷師の技
ワラを生かした伝統技能
カット: 柴田コレクションから
消えていくものに伝統の職人技がありますが、有田焼でいえば荷師(荷仕とも書く)とよばれる人たちの*荷造りの手わざがそうです。江戸時代には皿山会所の*荷師札の交付を必要としたほどの職業でしたのに、段ボールや木箱に代わられて消えてしまうのは寂しい気がします。

荷師が荷造りに使う材料は、ワラ、ナワ、コモなど稲から出来るものばかりです。道具はシスケ(台)、大包丁、小包丁、ワラスグイの四つで簡単です。包装の仕方は品物によって異なりますが、大きくは、*コグチギリ、*ワマキ、*スカラゲの三つに分けられます。通常、安い焼き物はスカラゲですませ、値のはるものには他の二つが用いられます。特別に習練を要するのは「ドグラワ」という技術です。ヘビが渦巻く姿を塒(とぐろ・またはとぐら)巻きということから付いた名前ですが、ワラをナワで徐々に巻き締めて輪をつくる方法です。
ゆるすぎてもきつすぎてもいけません。手加減をつかむまでに多年の経験を要しました。

いま有田町には5人の荷師が残っています。昭和10年代から20年代にかけて弟子入りした人たちです。師匠はたいてい父親でしたが手加減をしませんでした。見習い期間中の仕事はもっばら師匠の小取りでした。仕事のあとには、包丁をとぎ、ワラをしめらせ、焼き物の底の高台に当てる小さな輪をつくるといった修業が待っていました。そんな見習いを約3年して、半人前の段階をさらに約3年。それから一人前の扱いになりました。荷師には会社などの専属と自営があり、香蘭社の見習いの日給は、米一升が15銭のころの昭和9年に50銭だったと「有田町史」にあります。自営の場合は出来高払いが普通でした。

もちろん荷師にもうまい下手があって、下手だと焼き物がこわれることがありました。ところが、輸送中の不手際まで荷師のせいにされることがあったりしたので、荷師たちは組合をつくって足並みをそろえました。有田と伊万里の組合が大正時代に合併していますが、ミニコミ紙「*有田縦横」の昭和4年2月15日号に「有田町で一番力のある組合」という表現があります。それほど団結が固かったのでしょう。昭和10年ごろの組合員は150人くらいだったと推定されます。

佐賀は昔から穀倉で荷造りの材料には事欠きません。ワラは強い繊維性をもち、しなやかなので荷を包むには最適です。このような身近な自然の素材を荷造りに利用することを思いついたのはだれでしょう。
最近は特別な注文だけになった皿山伝統のパッケージの技を何とかして残したいものです。
(尾崎葉子)
写真: 荷造りの作業
▲荷造りの作業(昭和の初めごろ香蘭社で)

写真: 荷造りの作業
写真: 荷造りの作業
▲荷師橋本勝さん(南原)の荷造りの作業
*コグチギリ
最終的には俵の形になるもので、例えば1尺の皿を荷造りする時は次の手順である。
(1) 5枚ずつをワラで包み込んだものを5個作る。
(2) (1)を重ねてワラの輪(マグリワ)で補強しナワでしばる。
(3) コモの上にワラ束を10束位ずつ交互に20束ほど重ねて広げ、(2)を巻き込む。
(4) (3)をナワで固く縛り、両端を大包丁で切り揃えて出きあがる。「俵の重さは約25〜30kgになる。

*ワマキ
ワラでからげたものをドグラワで巻き込むもので、大皿などを荷造りするときの方法。中身がみえるが、かえって取り扱いに注意するので思いのほか丈夫な荷となる。

*スカラゲ
焼き物をからげる(まとめてしばる)だけの簡単な荷造り方法。荷造りとはいい難いがミダレニという籠などに入れた焼き物の間にワラをはさみ込んだだけの最も簡単な方法もある。

*荷造り
江戸時代有田で焼かれた陶磁器はすべて伊万里に運ばれ、伊万里の地で売買された。他国の商人が有田皿山に入って直接買いつけることは禁止されていた。有田から伊万里までの運送は、荷担い人(ににゃあにん)が「おうご(天秤棒)」で担いでいくか、あるいは牛や馬の背につけて運んだ。「おうご」で担いでいくときは籠に入れて運ぶのでたいして荷造りの必要はなかったが、牛馬の背につけて運ぶときは厳重な荷造りが必要であったと思われる。

長崎からオランダの商船に船積みされるときは、改めて荷造りされ、磁器の中で比較的上質のものはたいてい木樽に入れて送られ、ほかには木箱や枝編籠やワラの包みの中に入れられた。

「皿山代官旧記覚書」によると明和7年(1770)、オランダ向けの輸出陶磁器について皿山会所は、粗悪品を輸出しないよう監視するため、商人とともに、切りほどいた荷を再び荷造りするための荷師嘉平次を長崎へ派遣した。
*荷師札
江戸時代、陶磁器の荷造りを職業にするためには皿山会所に申請して荷師札の交付を受けなくてはならなかった。他の絵書札や細工札と同様に相続や譲渡には許可が必要であった。

*有田縦横
大正13年5月25日、大樽の平林専一が松浦陶時報を発刊したが、その別紙で論評を主とする情報誌のこと。このほかに同10年11月15日、元東京日々新聞記者大宅経三(山内町中通出身、有田工業卒)を主筆とし赤絵町の窯元庄村吉郎を発行人(後に上幸平の陶磁器商・松本静二) とする肥前陶報が発行されていた。

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