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No.44
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| 碑は明治33年10月に建立されましたが、大正5年12月3日に贈位祝賀会が陶山神社境内で開催されました。この写真はその時のものではないかと思われます。(写真提供 深川泰子さん) |
| 10月23日の進歩ジュウム「皿山の群像〜今、有田に求められるもの」には、会場一杯のご出席をいただき予定を一時問もオーバーする熱心な質疑が行われました。主催者として厚くお礼申し上げます。 江戸末期から、明治初期にかけての動乱期に海外へ向け果敢にチャレンジした先人の情熱と、ご出席のパネラーの先祖への想いが聞く人にひしひしと伝わってきました。 当日のパネラーの方が多くの資料を準備されながら時間の都合で発表できなかったものに、八代深川栄左衛門の碑文がありました。その一部をここに紹介します。「深川君之碑」は有田町大樽・陶山神社の境内にあります。この碑は、額の題書が大隈重信、撰(述作)が久米邦武、書は西岡逾明でいずれも有名な方です。 碑文を現代文に訳した文書(森田前館長・山中和子さん共作)はシンポジュウムの当日、全出席者に配付されましたので、既にお読みの方もおられると思いますが、その経営思想は130年後の現在に相通ずることがたくさん述べてあります。 例えば、江戸末期に藩へ申し出て、貿易鑑札を10枚に増やしたこと、窯業界の先頭に立って有田町全体の利益を図ったことです。 |
また、美しい磁器を作るためには自分の心が美しくなければならぬ。生け花や茶道を身につけ、古陶磁を鑑賞し、文化人と交流して教養を深めねばならぬと、常に切磋琢磨する必要性を説いています。 そして、有田の人々は一般に派手好きである。鳴り物入りで遊興するのが好きである。これでは身を亡ぼすので、倹約をしなければならぬと説き、自分自身(深川栄左衛門)もぜいたくをひどく嫌っていたと「撰(述作)」に書いてあります。 更に、困った人がいればひそかに援助し、人間は怠けたらいかんと戒め、お付き合いも丁寧で、先見性をもっていたと述べています。 この碑文の後半では、陶磁器の製造家は常に技術を磨き、商いは薄利に甘んじるべきである、と八代深川栄左衛門は言っていたと、撰に当たった久米邦武は書いています。八代深川栄左衛門は、明治22年10月23日(奇しくも進歩ジュウム当日が命日でした)に58歳で亡くなるのですが、これまで紹介した撰は現代に通じる経営思想ではないでしょうか。 (久富) |
| 八代深川栄左衛門については「有田町史陶業編II、政治社会編II、商業編II」などにあります。また、「日本の『創造力』(2)殖産興業への挑戦」には碍子生産からみた深川栄左衛門について書かれています。 |
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