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季刊皿山  秋 No.55
有田町歴史民俗資料館・館報
町史の行間
明治25年、橘常葉が記した日誌(橘家所蔵)

新発見!江越礼太晩年の日記

明治時代初期にあって、画期的な実業教育を推進した江越礼太。今年はその没後110年になります。過日、長崎県千々石町在住の橘周次郎さん夫妻が来館され、先祖の橘常葉(たちばなとこは)が記した明治25年から大正12年までの31年間、87冊にのぼる膨大な日記の中に、師であった江越礼太に関する記述や江越自身の日記があることを教えていただきました。

「常葉有田行日誌 登録」と明記された中に、明治25年1月31日の訃報を受け、有田に向かった常葉の動向が克明に記されていました。それらから江越礼太が有田小学校辞任後、長崎に赴いたのは旧知の中林梧竹が東京から長崎へ来るという知らせを聞いたためであること、その時病を得て最初は出島の香蘭社(支店)で養生していたことなどがわかりました。
江越死去の知らせを聞き、2月3日常葉は同行の者とともに千々石を発ちました。人力車を走らせ、翌4日正午過ぎに本幸平の旅館伊勢屋・手塚五平宅に到着しています。その足で白川黌内にあった亦楽亭(江越礼太宅)を訪ね、遺族に弔いの言葉を述べました。

翌日、再び江越家を訪れ、孝太郎・米次郎の遺児や久富・八雲・千布・本山の諸氏と共に霊前で語り合う中で、江越礼太が長崎へ赴いた折りの日記の存在を知ります。そしてそれを土産にしようと書き写しました。江越自筆のものは未発見で、今回初めてその日記の存在が明らかになったのです。



日記は明治24年11月28日に家を発ち、早岐から船で時津へ渡り、出島の香蘭社に着いた記事から始まっています。その後、小浜への旅行や同年10月の濃尾地方の震災を写した幻燈会を開いたりしていますが、12月6日、吉雄老医の診察を受けています。この吉雄老医というのはおそらく吉雄圭斎のことと思われます。彼はボンペ、ボードウィンなどに接触して新しい医学を学んだ人です。この日以来床につくことが多くなってきますが、病床の中でいくつかの漢詩をしたためています。その一つに次のような詩があります。
「憶家
窮途負債日加多又是今年空自過病在他郷無所告
不知家計果如何」
この詩からは、勉脩学舎を開校したものの志なかばで断念。さらに多額の負債を負い、異郷の地で病を得て残された家族を思う江越の無念さが伝わってきます。日記は亡くなる直前まで続きます。この間、中林梧竹や家族、弟子たちが再三訪れ、また、求められて揮毫をしたり、盛んに手紙のやりとりを行っています。明治25年の元旦には「病今朝全快」して、気持ちを新たに屠蘇を酌み交わしている様子が伺えます。

絶筆となった1月28日は、「朝後藤祐一之書状落手、返書出ス、金井俊行氏委嘱書画ヲ送ル」とあり、普段と変わらない様子が伺えますが、その後容体が急変し、31日午前6時、65年の生涯を閉じました。

(尾崎葉子)


  メモ 橘常葉は長崎県千々石の人。若いころ小城・有田にあった江越礼太の塾に遊学し、漢籍を学びました。その後殖産興業を志し、養蚕・製茶・製糸などあらゆる事業を展開し、のち学務委員や村会議員などを歴任しました。日露戦争で壮烈な戦死を遂げ、広瀬武夫中佐とともに軍神として喧伝された橘周太中佐は実弟。
江越礼太については、「有田町史 政治社会編II、陶業編II」、「江越礼太と勉脩学舎」などにあります。

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