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No.66![]() |
| 陶器市も無事終了し、大型連休の最終日となった5月8日に有田町文化体育館に、800人の方が、劇団わらび座のミュージカル「百婆」を観劇しました。(翌9日には町内の小中高校生が1500人観劇) 実に素晴しい演技で、演劇の終る頃には感動で涙が出ました。さすがに「わらび座」です。出演者の熱気に打たれ「元気」をいただきました。劇団「わらび座」にお礼を申し上げたい。そして公演に当り裏方をお務めの皆さま本当にご苦労さまでした。また日韓友情年2005年にふさわしい企画でした。 この「百婆」は作家・村田喜代子先生の「龍秘御天歌」をもとにしたものです。ミュージカルのあらすじを紹介しましょう。 亭主である辛島十兵衛が死んだ。 |
故郷(朝鮮半島)を離れ、散々苦労して日本で初めて登り窯「龍窯」を築いて、藩主が将軍家に献上できる立派な磁器が焼き上がるまでにした亭主が死んだ。 息子・親戚・一族郎党が寄り集り「辛島十兵衛にふさわしい葬儀を出さずばなるまい」と衆議一致したときに異様な声がして、十兵衛の妻である「百婆」が白髪の頭を振り乱して屋根にまたがり、北の方角に向って、すっくりと立ち、左手に亭主の着ていた白衣を高くかかげて「ハクセン、チンチョン、チャンシ、かえれー」と叫びます。(チンチョン生まれの百姓のチャンさんの魂よ還ってこいの意味) 百婆は苦労を共にしてきた亭主・辛島十兵衛をクニのやり方で葬ると宣言し、息子たちは大慌てします。 |
| 百婆はクニの葬儀をしたいし、息子たちは日本で生きていくのだから日本の葬儀の方法をとりたいと大騒ぎになるのです。 ミュージカルはユーモアたっぷりに意外な展開をしていきます。(有田町公演実行委員会のチラシ参照) 皆さんもご存知のように有田焼の陶祖・李参平と共に宗伝(ミュージカルでは辛島十兵衛)の妻・百婆仙は陶磁器創成期のかけがえのない人です。 百婆仙について有田町史や色々の資料を調べてみました。 「肥前陶磁史考」では内田村(現在の武雄市)より960人を引連れて稗古場(有田町4区)に窯を築いたとあります。 |
「西松浦郡誌」によれば、宗伝は日本に帰化してより深海新太郎といい、内田村陶工の祖であり元和4年(1618)10月に没した。その妻子が泉山で磁石発見の情報を得て稗古場に移り住んだ。これが深海製陶の始祖であると書いてあります。 「有田町史」には陶業編I、通史編に紹介されていますが、その根拠となったのは報恩寺(有田町稗古場)境内にある「萬了妙泰道婆之塔」の碑文です。その碑文によれば故宗伝の妻が同族の工人を連れて稗古場で開窯した。宗伝の妻の顔形が温和でゆったりとしていたので孫たちが敬愛して「百婆仙」と呼んだと書いてあります。 その当時960人もの工人を連れて来たのが事実であれば百婆仙のリーダーシップはすごいですね。 |
| どうも百婆仙が死亡したのが96才ですから、これを960と読み達えた懸念もあります。 リーダーシップに必要なことは「智・仁・勇・寛」です。「智」とは洞察力、「仁」は心の温かさ、「勇」とは決断力、「寛」とは包容力です。 それに960人もの人達の異動を認めたお役人や地元・稗古場の皆さんの包容力の素晴らしさに感服します。(現在の稗古場の人口は190人です。如何に大きな異動であったか想像できるでしょう。) 百婆仙は明暦2年(1656)3月10日に亡くなります。来年が没後350年になるのではないでしょうか。 |
そして報恩寺にある「萬了妙泰道婆之塔」が宝永2年(1705)に建立されていますので今年で300年になります。 話は戻りますが、劇団わらび座による「百婆」は有田を振り出しに九州各地、そして全国各地で明年3月まで120公演される予定です。有田焼の始祖「百婆仙」を全国に紹介していただく、有難いことです。 皆さん、さわやかな初夏の季節となりました。有田焼の今日をもたらした報恩寺の「萬了妙泰道婆之塔」や稗古場古窯跡を訪ね、黙々として作品制作に打ち込んでいる窯元との語らいで、有田の素晴らしさを味合ってみませんか。 (久富桃太郎) |
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