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季刊皿山  冬 No.60
有田町歴史民俗資料館・館報
町史の行間

西海の孤島に残る有田焼タイル

祭壇のタイル


松尾徳助氏
長崎県佐世保市の沖合いに浮かぶ黒島には明治33年から35年にかけて建設された「黒島教会堂」があります。当時、黒島に着任していたフランス人宣教師マルマン神父の設計で、神父の献身的な努力と、島民の協力によって完成した建物は、レンガ作りで屋根は3層構造となっています。

この建物の中の祭壇に敷き詰められているのが、有田焼のタイルで、焼いたのは有田・岩谷川内の窯焼だった松尾徳助です。過日、そのタイルを見るために黒鳥に渡りました。
タイルの定義は『日本陶磁大辞典』によれば「主として建築物の表面を覆う陶磁器製の板」とあります。現存するタイルで最古の例は、エジプトのサッカーラ・階段ピラミッド内陣にあった、紀元前2700年ごろのブルータイルとされます。日本の最も初期の作例として承応元年(1652)の瀬戸・常光寺の源敬公廟(徳川義直)の褐色釉の敷瓦、江戸中期の京都西本願寺・転輸蔵の腰壁を飾った柿右衛門様式の色絵陶板などがありますが、盛んに使われだしたのは幕末から明治にかけて長崎や横浜などに外国人家屋が建築されてからのことでした。マントルピース(暖炉の装飾枠)の前敷や風呂、洗面場などに輸入した磁器製のタイルが貼られています。



国内では明治12年から瀬戸の本業タイルが生産されるようになったとされます。有田では前述の松尾徳助が明治32年(1899)に焼いたのが最初だといわれます。この松尾徳助という人物はどのような人だったのでしょうか。子孫にあたる松尾博文さん(神奈川県川崎市在住)から提供された『松尾徳助傳(作者執筆年代不詳)』という資料があります。これによれば徳助の父勝太郎は明治4年(1871)、長崎でジョセフ彦(浜田彦蔵 1837-1897)と出会い、これからの時代は海外貿易だと大志を抱き、外国人に好まれる焼き物作りに取り組みます。明治6年、長崎広馬場に店を開き、同16年徳助は単身香港に渡り、磁器の販売と商況の調査を行いました。その後、石炭焼成による素焼窯や半胴(磁器製傘立て)など果敢に新しい分野に取り組みます。その中に当時敷瓦と呼ばれたタイルもありました。明治35年(1902)の第7回西松浦郡陶磁器品評会では、この敷瓦で2等賞を受賞しています。 おそらく、この折の製品が黒島教会堂の祭壇に使われたのではないかと思われます。十字架にも見える染付の文様でその数は千枚以上にのぼり、 1枚の大きさは183〜185mm角で、裏面には「肥前有田 松尾製造」の刻印が確認されています。

今は現存しませんが、長崎市にあった高島炭鉱旧長崎事務所の1階ベランダにも形状及び刻印が全く同一のタイルが使用されていた事が確認されています。長崎にあるレンガづくりの教会は16棟ですが、黒島以外でタイルを使用した例はありません。どのような経緯で有田焼のタイルを使うようになったのかはわかりませんが、有田から遠く離れた孤島に残るタイルは明治の新しい時代を迎え、時代の要請に応じた焼き物作りに取り組んだ先人の思いを伝えています。

(尾崎葉子)




  メモ 黒島教会堂に関して「長崎の天主堂と九州山口の西洋館」 (太田静六著)があります。松尾徳助製造のタイルは当館に所蔵しており、徳助に関しては「有田町史 陶業編II、商業編II」など。その他の参考資料「アメリカ彦蔵自伝1,2」(東洋文庫)

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