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季刊皿山  夏 No.62
有田町歴史民俗資料館・館報
町史の行間
有田に新風をもたらした
柿沢市郎さん

有田には素晴らしい日本画を描かれた川浪義治先生、洋画の田中太郎先生、そして現在も後進のご指導をされている原栄三郎先生、辻公也先生などがいます。さすがに有田ならではのことです。

このたび有田陶磁美術館開館50周年企画として「宮川香山展」を6月末まで開催中です。展示作品は名誉町民、故水辺喜一郎様のご寄贈によるものです。

宮川香山については有田町史に紹介されていますが、横浜の「真葛焼」として有名な作品が、何故「有田」と関係があるのかと疑問に思うところです。

ところが、宮川香山第2代の門下生として、有田へ新風をもたらした方が「柿沢市郎」さんです。(桑古場)

今回の"町史の行間"では柿沢さんにっいて紹介します。柿沢さんは石川県金沢市で明治36年3月の生まれ、県立金沢工業学校時代に同校教諭板谷波山先生が柿沢さん宅に下宿します。
板谷先生は、皆さんもご存知のように明治・大正・昭和に捗って活躍された官展系の第一人着です。帝室技芸員、芸術院会員、文化勲章を受章された方です。柿沢さんは18歳で金沢工業学校窯業科助手となるのですが、同年学校の推薦で同じ帝室技芸員の宮川香山師のもと、横浜で修業することになるのです。

横浜で修業中、大正12年9月1日関東大震災に遭います。この地震で横浜市街の6割が焼失したのです。その当時の恐ろしさが忘れられないと、次女の弘子さんに話されていたそうです。

昭和2年(1927)24歳のときに国立京都博物館長で文部省文化財専門審議会委員の水町和三郎さんの紹介で、水町さんと縁の深い香蘭社へ入社されます。それは万国博覧会出品作品に柿沢さんの技量をとり入れる為でした。柿沢さんは香蘭社に10年間勤務後、中樽区で締付業をされますが、昭和14年、再度香蘭社へ入社されます。その頃、沖縄出身の伊良皆さんも仕事仲間として過します。



昭和33年香蘭合名会社美術品工場長、昭和35年香蘭社陶磁器販売(株)取締役に就任し、昭和42年に退任されます。柿沢さんは退任後も同社相談役、深川製磁、幸右衛門窯、鶴松陶園、幸山などで指導に当られました。

当時、柿沢さんの指導を受けた渕野博巳さん(塩田町)は、よく自作の試作品を見てもらうために、先生のアトリエに通つたそうですが、先生への一番の感想は「本当に花を愛する人だった、本物の花を見てデザインされていた。その当時、有田では珍しかった蘭やスイトピーをあしらったデザインが先生の得意とするところだった」と、また観葉植物のアジアン・タムリの細かい葉を一つ一つ丁寧に表現され、それも一枚一枚が個性をもって表されているのには驚きでしたと話されました。

弘子さんの話によれば、お父さん(市郎さん)は、小さい頃から絵を描くのが大好きだった由、スケッチブックを離されなかったそうです。家族をとても大切にし、皆んな揃って食事をし、コーヒータイムを楽しまれました。一方では仕事に実に厳しく、妥協を許さず、一途に追求する人でした。
ある日、蕾のついたバラを50本求めて帰られたそうです。このバラが開花し、散るまで、時々刻々をスケッチして、これが香蘭社の作品に反影し、好評を得ました。これは柿沢さんとバラと命の交流があったのです。毎日描いているとバラと語られるようになります。そしてバラの周りの空間密度が見えて来ます。バラも見つめられていることに反応するのではないでしょうか。これが精妙な描写によって作品に現われ、潤いのある表情のある作品へと、つながって行ったと考えられます。

夜中に何か音がするなと思って部屋をのぞくとデッサンに熱中されていることも度々だったようです。人生には「のめり込む」ものが必要ですね。充実した一日を過すことで充実した人生を送ることが出来ます。

柿沢さんは旅に出ることと釣りも楽しみの一つでした。昭和57年11月、79歳で黄泉の国へ旅立たれます。有田に新風をもたらした柿沢さんの作品を見せてもらいましたがいずれも表情があります。心のやすらぎを感じます。二度とない人生ですから人それぞれがその資質と天分を発揮することを通じて世の為に尽すところに人生の意義があると、つくづく思った次第でした。
(久富桃太郎)



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